日本フォーカシング協会

ユージン・T・ジェンドリンを偲んで

 ユージン・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin)が,2017年5月1日午後(Eastern Standad Time、日本時間2日午前)、ニューヨークで亡くなりました。90歳でした。彼の多大なる功績と人柄を偲び,謹んでご冥福をお祈りいたします。

 人が体験していることを表現し理解していくプロセスに着目しフォーカシングと名付けた米国の哲学者・心理学者であったジェンドリンは,私たちの生活と社会にたくさんの恵みをもたらしてくれました。

 このページでは,協会メンバーから寄せられた追悼文を掲載していきます。

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ジェンドリンとメアリーの思い出

村里忠之Ph.D.(宮カウンセリングルーム)

 何人かの人に勧められて、ジェンドリンのことを書くことになった。ジェンドリンという存在は僕の身体知的遍歴の終りの方に属する。早稲田の政経学部を卒業するころまでに僕を捉えていたのは文学と音楽だった。絵は子どものころから描いていた。卒業するころ、それまで学んでいたことだけで、世の中に出るのが怖かったので、文学部に学士入学し、歴史学を京都学派の鈴木成高に学び、それはやがて自然に哲学へと発展した。歴史主義からハイデガーへだった。博士課程を出て、非常勤で教えたりしているころに、成り行きで住民運動にかかわり、その頃から長い間関心のあった心理学を学び直すことになった。入った大学院で教鞭をとっていた精神科医の穂積先生に誘われて、半年経たないうちに最初のケースを持つことができた。精神分析のワークショップ等にも出ていたのだが、ロジャーズが無難なのではと思い、全集を買ったりするうちに、ジェンドリンという存在を知った。哲学出身という経歴も親近感を覚えたのだ。それで村瀬孝雄先生のワークショップに出かけた。これがジェンドリンとの間接的出会いである。教わったフォーカシングは、ずっと以前から自分にはなじみのある感じだったが、このように明確化、方法化されているのが嬉しかった。

 ドイツでフォーカシング国際会議があり、出かけることになった。村瀬先生から、ジェンドリンが「複雑な」という形容詞にcomplicatedではなくintricateを使っているのは、意味の違いがあるからだろう、聴いてきてくれと言われ、カンファレンスの合間にジェンドリンに質問した。彼は、「同じだが」と言いつつ、intricateはこんなだと、面白い手振りを交えて説明した。彼の言葉が彼のフェルトセンスから生じるのがよく分かった。これが生ジェンドリンとの初めての出会いだった。

 その後ジェンドリンはTAEというワークショップを開いた。英語で5回、ドイツ語で4回。英語でのワークショップはニューヨークで。僕の英語会話能力はおぼつかなかったが、行けば不思議に「故郷」に帰った感じがしたし、何より面白い体験だったので、その5回とも出席した。最初の回に、すでにニューヨークに入り、ホテルにいたのだが、電話が入り、ジェンドリンが交通事故でできなくなったという知らせがあった。指示通り、キャロリンというとても親切な婦人の家に泊めてもらい、翌日だかにジェンドリン夫人のメアリーが迎えに来てくれて、同じような状況の外国人数名と一緒にニューヨークのウェストサイドの高層ビルのアパートに病床のジェンドリンを見舞った。

 TAEのワークショップは次の年から毎年連続で5回あったと思う。参加者はそれほど多くなかった。ジェンドリンもFOLIOのTAE特集の序文に書いているように、最初の回の参加者は皆、おそらく後で共同開発者になったカイ・ネルソンを除けば、よく理解できなかったと思う。僕には複数の支援者がいて、彼らが参加の全費用を持ってくれた。そのことをジェンドリンに伝えると、彼は“Say hello to them.”と言った。そういう応答がとても簡にして要を得ていた。TAEは自分のフェルトセンスからマイ・センテンスを作るのだが、彼は参加者のセンテンス作りをガイドしてくれた。できた僕のセンテンス:Something important happens like a breeze or a ripple in a poetry place.を伝えると、彼は「重要でないものは詩ではない」と返してくれた。僕の中では、「天下国家は我がことにあらず」と言い、抒情詩へと詩作を制限せざるを得なかった紀貫之以来の我が国の詩作の伝統と、人間の歴史の運命を読み込む、ハイデガーが称賛したヘルダーリンの詩に代表される西洋の詩作の歴史との対比が、交差し渦巻くように感じられた。僕の英語力ではそれをジェンドリンに伝えることはできなかったのだけど。ワークショップの初期のころ、気の毒に思ったのだろうメアリーが、ペアワークの際に僕の相手をしてくれた。そして彼女は僕のつたない英語力でも詩的な文章が作れることをジェンドリンに大きな声で、Tadayuki is so poetic!と伝えてくれた。武満徹は英語に堪能な人ではなかったと思うが、彼が自分の作曲にとても素敵な英語のタイトルをつけている、そのことが思い出された。またある時、会場の建物のポーチでタバコを吸っていたジェンドリンに僕は「自然科学は西洋人にとって超自我だったのではないか」と問いかけた。すると、彼は「そうかもしれないが、君はなぜそう思うのか?」と僕の肩を抱いて、一緒に食堂のランチへと同伴してくれた。

 またある回に、参加者を彼の森の中の自宅へと招待してくれた時、僕一人を彼の書斎へと連れて行き、あれこれ話し、確かヴァレラが自分に何か書けと言ってきているが、お前は書く気があるかと誘ってもくれた。僕の英語能力では果たせぬことではあったけれど。終りの方の回で、僕はメアリーに、「あなたはジェンドリンの思想のスポークスマンだろう、僕は日本で彼の哲学を広めたいのだ」と語った。彼女は後で、ジェンドリンがTAEのワークショップのサイドテキストに指定していた『A Process Model』を3冊送ってきた。僕はいわばメッセンジャーとして、それを持って、ジェンドリンの思想と実り豊かに交差しうると僕が思う、竹内敏晴と清水博のところに行った。竹内は、以前ジェンドリンが日本に来た時にワークショップに出ていたと聞いていたのだ。僕は竹内さんとは相性が良かったのだが、彼は新刊の『思想するからだ』を贈ってきてくれた。丁度TAEの最後の方のワークショップに出る前だったので、僕はその本を持参し、ジェンドリンに「thinking body」というタイトルの本だ、と紹介すると、彼は僕の書き込みのある日本語のその本を持って行ってしまった。清水博は西田哲学を援用して生命科学の新しい概念を作り出していた先生である。僕はジェンドリンに西田哲学を知っているか、と聴いたことがある。「名前だけ」というのが返事だった。その後ジェンドリンはTAEのワークショップをカイ・ネルソンにいわば委ねたのだが、さすがにその回は参加者が7人しか集まらなかった。ジェンドリンはメアリーと1日だけやってきた。そのとき、僕がシューマッハーの“Small is beautiful”という本を引用して、この小さな集まりが心地良いと言うと、彼はかつてフォーカシングのミーティングをシカゴで初めて開いた時も7人だったと語った。カイには一度日本に来てもらったが、繊細で傷つきやすい彼女は、その後ワークショップをやらなくなった。3.11の大地震の後でカイがTadayukiのことを案じているということを人づてに聞いたので、僕は無事を伝えた。

 僕らはもう10年以上前からジェンドリンの哲学を勉強しているし、東京で諸富さん、末武さん、得丸さんたちとささやかなジェンドリン学会も開いているのだが、あるときニューヨークでジェンドリンが講演をやるというので、その集まりに出かけた。そうしたらジェンドリン夫妻が僕らを自宅に招いてくれた。ホテルの近くの花屋で大きな花束を作ってもらい、皆で出かけた。“From PM Lovers in Tokyo” とメモを添えて。僕はハイデガーのことを「政治音痴の政治への関与」と言ったのだが、ナチからの逃亡の個人史を持つジェンドリンは「それでも過ちは過ちだ」と言い、しかし直ぐに「間違いは誰にでもあることだ」と付け加えた。僕らの活動としては、最初のフォーカシング指向心理療法大会でも発表をした。とても素敵な会場を提供してもらったのだが、既に病身だったメアリーが来てくれて、最後まで聴いてくれた。その後メアリーから、あなただから伝えると、自身のパーキンソン病が治療薬がない難病だと、やや長めのメールを送ってきてくれた。それから数年後に彼女は逝った。そして今年、僕が実際に会った優れた人物の中でも一番の天才であるジェンドリンも亡くなった。

 遅々として進まないのだが、得丸さん、末武さんと僕は今プロセスモデルの翻訳の最終チェックをしている。ジェンドリンの哲学は、彼も言うように、「一つの」プロセスモデルであり、それは近代の自然科学をバックアップする西洋近代哲学の超克を体現するはずの広い意味での新しい科学、人間と環境との応答の現実を捉え、そこから社会への新しい提言を可能にする哲学である。ジェンドリンの思想は今後フォーカシング、TAEとともに、一層その重要性を増していくだろう。そしてそのための自分なりのささやかな努力を果たしたいと、僕は思っている。

人生の分岐点に出会ったジェンドリン 喪の想い

望月秋一(長野フォーカシング・プロジェクト)

 学生時代に「体験過程と心理療法」を読み、悩みのさなかのフォーカシングイメージは、丸太橋の真ん中でバランスを保ちながら谷底へ落ちないように渡るところであった。振り返ると、人生の分岐点でジェンドリンと出会った。1978年の教員2年目、ジェンドリン(以下ジーンと記す)の初来日ワークショップが京都で開催され縁あって参加した。ワークの昼休みに蕎麦レストランで「夢は、深いフォーカシングに通ずるものがあるのではないか?」の私の質問に、通訳を挟んでジーンは「夢のシンボルは、フォーカシングの深いフェルトセンスのハンドルに関連している」というような応答だった。ワークが終わると迷いは消えて、教員をやめて心理臨床家(当時は何の制度化もなかった時代)を目指す決意をした。

 その後、私は名古屋大学医学部心理研修生になり、ヤスパースの限界状況にある精神病理学を学び、信州の北端で西丸四方先生たちと32年間重い精神の病を抱えた人たちの臨床に携わった。多重人格や複雑性PTSD、統合失調症の臨床に携わるうちに、健康なフォーカシングではなく、重い心の病を対象としたユングの分析心理学、イギリス対象関係論的心理療法、東洋の心理療法に傾倒した。フォーカシング研究者は、フォーカシングを第1に置くかもしれないが、臨床家である私は、まず目の前の重い病を持つクライアントと共に、なかなか良くならない闇と向き合いながら、良かれと思うことはどんなことでもする姿勢であった。

 長い間総合病院での小児精神医療と精神科臨床を地道に実践する中で、1998年に信州ヤナバの大澤美枝子さんのログハウスで、アン・ワイザー・コーネルの少人数ワークショップがあり参加した。私は、クライアントにとってもセラピストにとってもわかりやすくぴったりくるものを求め始めたこともあり、20年ぶりにフォーカシングの古巣へ帰省した気分であった。再びユング派との交差を始めた。2007年に日本臨床心理士会で世話になった河合隼雄先生が亡くなり、心が空っぽになりぼんやりと喪失を体験している時に、ニューヨーク・ガリソンのウィークロング・ワークに参加した。ジーンは81歳で体調が悪く出られないということだったが、特別に一日だけガリソンへ来てレクチャーとデモンストレーションをした。ジーンは、京都のワークの頃は52歳で若々しくハンサムだったが、29年の歳月が過ぎ眼光鋭く優しいお爺さんに変わっていた。 特別なことが続くもので、幸い私がガリソンで見た「魂山への旅」の夢を、ジェンドリンと夢フォーカシングをすることができた。夢では、山道を登るバスの運転手がジーンに似ており、夢フォーカシングでは山の頂のエッジに立つ私の足場が広がり、力強くなる体感が印象深かった。【これは後に淡路島の国際会議で発表し、私著「心理療法エッセンス」(ほおずき書籍)に掲載した】。

 今年3月に母親が亡くなり、5月1日にジーンが天国へ旅立った。節目・節目で、奇しくもジーンと出会った。不思議なことである。今年度の長野フォーカシング・プロジェクトのテーマが「死(破壊)と創造」で、戸隠で久しぶりに同じ趣旨でワークを開催した。まさに現実がテーマ通りになった。現実の喪失感が後からやってくる。私の場合は、体の感覚は敏感で、ぼんやりとうつろになり力が入らないときがある。しかし、覚めて鮮やかに緑が飛び込んできて、新たな何か蘇る予感がするときもある。

 最後に、天国のジーンに感謝したい―『私の深いところどころで、私と対話し何かを生み出し続けてくれてありがとう。これからも、永遠のあなたと対話するからよろしく・・・』

合掌

ジェンドリンと私

末武康弘(法政大学)

 私には心から畏敬する3人の存在がある。いや、その3人全員が亡くなったことを思うと、「あった」と言うべきだろうか。カール・ロジャーズ、友田不二男、そしてジェンドリンである。

 私がジェンドリンの思想や方法に最初に触れたのは、学生だった40年近く前のことであり、筑波大(あるいはその前身の東京教育大)の先輩だった犬塚文雄氏や上嶋洋一氏を通してのことだった。東京教育大と筑波大の教育学研究科にはロジャーズやジェンドリンを研究する流れが(細々と)あって、先輩たちからジェンドリンの論文の写しをいくつも頂戴した。また大先輩である増田實先生や岸田博先生からもジェンドリンやフォーカシング関係の貴重な資料をいただいたりした(そうした論文や資料はその後、後輩の諸富祥彦氏ほかのもとへ渡っていった)。

 友田不二男氏の著作の影響から(その出身大学だった東京文理科大の末裔にあたる)筑波大に進学した私は、もちろんロジャーズにはすぐに傾倒することになったが、ジェンドリンの存在やその仕事の重要性を知ったのはそれほど早いことではなく、上嶋氏の修士論文の手伝いをしていた学部4年生の頃だった。そして、私の中でその存在が大きくクローズアップされるようになったのは、その2年後(1982年)に来日したカール・ロジャーズと娘のナタリー・ロジャーズによる6日間のワークショップに参加した時からのことである。間近に見るロジャーズは静かで深い存在感を感じさせてくれたが、すでに80歳を迎えた老人であり、またそのロジャーズに対して熱狂的あるいはアンビバレントな眼差しを向ける人たちや、そうした視線からロジャーズを守ろうとする人たちの姿などを目の当たりにして、私の中にはある強い思いが湧き出てきた。それは、「ロジャーズをしっかりと見届け、そしてポスト・ロジャーズが誰なのかを見定めなくてはいけない!」というものだった。すぐにジェンドリンの存在が私の中に結晶化したわけではなかったが、しばらくの探究と熟考を経て、「やはりジェンドリンしかいない」という結論にたどり着いた。そこから現在に至る、私にとっての遅々とした、しかしある面ではゆるぎないジェンドリン研究が続くことになった。

 ジェンドリンと直接に触れあう機会は何度かあったが、思い出深い場面をいくつか振り返ってみたい。

 1つめは、1987年9月に2度目の来日を果たしたジェンドリンが、夢フォーカシングをテーマにした6日間のセミナーを開催し、そこに参加したことである。何人かの参加者がクライアント役となってジェンドリンの夢フォーカシングのデモンストレーションを体験したが、私もその1人だった。私は思い切って、「実際のセラピーに近い形で、本格的にやってもらいたい」と希望を伝え、ジェンドリンはそれに応じてくれた。その時の経験は、人間関係研究会の会報誌『ENCOUNTER』(1987年、第6号)などに報告したが、今でも忘れることのできないインパクトが残っている。後にやはりデモンストレーションでクライアント役をつとめた時のアン・ワイザーとの体験が、私にとって「3日間ほど自分が全く変容した(けれどもその後はまたもとに戻った)」ようなものだった(それはそれで素晴らしい体験だったが)のに対して、ジェンドリンとの体験は「その後10数年に渡って自分の人生の大きな課題となることが前景として浮き彫りになった」と言えるものだった。

 2つめの思い出深い場面は、2008年3月にジェンドリンがニューヨークで行った「暗在的なものが心理療法において果たす役割を照射しうるいくつかの哲学的概念」と題するワークショップへ参加した際、その翌日に日本から来た私たちをニューヨーク郊外の自宅に呼んで、質問とディスカッションのひと時を提供してくれた時のことである。詳細は法政大の学部紀要『現代福祉研究』(2009年、第9号)に書いたが、私にとっては彼の『プロセスモデル(A Process Model)』(Gendllin, 1997)の主要概念――「リーフィング(leafing)」、「停止(stoppage)」、「進化(evolution)」ほか――の意味を深く理解するまたとない機会となった。帰国した1週間後には、ジェンドリンからディスカッションに関連した手紙をもらい、その深い内容に圧倒された。私に対して(すら)このような相互作用をもたらしてくれたジェンドリンは、他のあらゆる人にも深い相互作用をもたらすことのできる存在であることを確信した。

 3つめの、そして最後のジェンドリンとの接触は、2011年の11月に開催された第2回フォーカシング指向セラピー国際会議に参加した時のことである。この会議にジェンドリンは顔を出さなかったが、会期中に日本人参加者で集まって彼の自宅を訪問した。印象的だったのは、別れ際にジェンドリンが、晩年のロジャーズが繰り返し「自分の真似はしないでほしい」と言っていたことに触れて、「自分も当時のカールと同じくらいのおじいさんになったので、皆さんに伝えなくてはならないが、私の真似をしてはいけない。皆さんは一人ひとり自分の道を歩んでいかなくてはならないのだから」と告げたことだった。ロジャーズも、そしてジェンドリンも「私の真似はしないでほしい」と私たちに言うのだ(そう言えば、友田不二男氏も逝去の直前に「今日で友田不二男はやめた」と語っていた、これも「私の真似はするな」というメッセージだったのかもしれない『友田不二男研究』(2009年))。

 それでは、私たち一人ひとりはこれからどのように進んでいけばよいのだろうか? 『プロセスモデル』第Ⅷ章のキーワードを(誤解を恐れずに私なりに咀嚼しつつ)用いて表現すると、ジェンドリンが生み出した哲学やフォーカシングやTAEといった「モナド(monad)」とその輝きは、多くの人の知るところとなり、大きな影響を与えるようになっている(「モナド・アウト(monad out)」)。そのうえで、私たちにとっての課題は、ジェンドリンのモナドが私たち一人ひとりの中にどのように取り入れられ、そこで新たな何かが創造され(「モナド・イントゥ(monad into)」、すなわち「ダイアフィル(diafil)」され)得るか、ということなのだろう。

 ジェンドリン(およびロジャーズや友田不二男)という存在や、彼(ら)が遺したモナドをただ賛美することにとどまるのでなく、私たち一人ひとりにおけるこうした「推進・進展(carrying forward)」の方向性と重要性を指し示してくれたジェンドリンに、あらためて感謝の気持ちを伝えたい。

Eugene T. Gendlinの死に接して思うこと

筒井健雄

 2017年5月4日、私はMMさんからのメールを通して「ジェンドリンがこの5月1日亡くなられたこと」を知りました。
 Geneとは心の深い所で共感し合える感じがあり、私にとっては偉大な師でありました。

1.私の目指した所

 私は1940年、いろいろな事情があって、父が当時の国策の満蒙開拓に参加したため、4歳から5歳頃、父に連れられ満州の開拓団に入植しました。1941年米英に対する戦争始まり、その翌年開拓団の国民学校に入学した私は軍国主義的教育を受けて軍国少年になりました。そして神風特別攻撃隊に憧れました。
 しかし、日本は敗戦、翌年引き揚げ、敗戦原因の一つとして、原子爆弾のことを知った私は、密かに、原子爆弾より強力な兵器を造って、復讐してやろうと考えました。軍国主義教育の名残は恐ろしいものです。ところが大学に入る頃、米軍がビキニ環礁で水爆実験をしてその「死の灰」をマグロ漁船第五福竜丸が浴びる事件が起こりました。これが、もはや戦争に依って国際紛争を解決することはできないことを私に教えてくれました。
 私は進路を変更して、戦争を必要としない人間創りを目指して、(自然)科学的心理学を研究することにしました。しかし、この(自然)科学的心理学では目指す「人格形成の科学」は学習も創造もできないことを知り、悩みました。この学問は意識や人格を科学的研究の対象としていなかったからです。
 幸い、1958年、一卵性や二卵性を使う双生児研究法での「性格に及ぼす遺伝と環境の問題」を研究する中で、双生児から「死後の世界は有り得ない」という事実を教えられ、大発見の歓喜と同時に運動幻覚の恐怖を味合わされ、このことを誰にも話せないという孤独の中で「人格形成の科学」=『人間科学』を創造した結果、およそ15年後の1972年に、運動幻覚に襲われるという恐怖から解放されました。この年、日本で開かれた国際心理学会で発表しましたが、北欧から一人「これを使わせてほしいという手紙」があって、OKしましたが、これ以外は全く反響が無かったものでした。日本の心理学会からは当然のごとく完全に無視されました。

2.Geneとの出会い

 その頃、先輩の村瀬孝雄氏を通じてGeneのexperiencing(体験過程)という概念を知り、共感しました。凄く嬉しかったものです。Experiencing and the Creation of Meaningはそれこそ、「これだ。これだ。」という心躍る感じの内容でした。彼は自然科学が成り立つための必須の次元を論理的次元と実験的次元の二つと定義し、さらに臨床心理学における必須の次元はこれら二つの他にexperiencing(体験過程)の次元である、と述べていました。この点がまさにGeneの優れた洞察でした。
 自然科学の実験においても、成功する研究においては実験者が未熟なうちは実験が成功しないが、失敗を繰り返すうちに実験者の人格がその実験を成功させるための能力を身に着けさせることになるわけです。自然科学的研究においてはこの面が全く無視されてしまっていたのです。それは客観性を重視する自然科学の立場が自ずとカット(無視)することになっていたからです。後に村瀬さんがアメリカから帰った時、この本を是非訳したいという相談をしましたが、「訳すのも難しいが、難しいから売れないかもしれないよ。」と言われたものです。全くその通りでしたが、最近はこれを使って講義をする方のお蔭でポチポチとAmazonを通して購入依頼が来ています。訳した時は、毎朝早く起きて2時間くらい訳す時間が楽しくてアッという間に過ぎたものでした。
 1978年在外研究を許されて、一年間ミシガン大学のボーデイン先生のところでカウンセリングの研究をさせて貰いました。本当はGeneの所で学びたかったのですが、彼から返事が貰えなくて、仕方が無いので、恩師の肥田野教授にお願いして、ようやく願いがかなったという次第でした。この時、6月10日、11日とGeneとその仲間に会う機会を与えられ、changesという会へも一寸だけ参加させてもらいました。
 有り難かったのは、その年の10月に彼が日本へフォーカシングを教えに行った後、ミシガン大のノースキャンパスに居た私の所へ電話を入れてくれて、「日本へ行ってきた。フォーカシングを教えるから私のアパートへ来ないか」と誘ってくれたことでした。この時、あのExperiencing and the Creation of Meaningを訳す許可を貰うことができました。

 この年の12月19日から21日までのGeneの新しいアパートでのことを「長野フォーカシング研究会25周年記念誌」の11頁から22頁に書いてあります。それをできるだけ短く、分かり易く紹介してみようと思います。Geneから提案された「フォーカシングを含む素晴らしい出会い」を思い出し、喜びと感謝の気持ちでそれを味わいつつ述べてみましょう。

 私は当時自家用車や飛行機というアメリカで日常的に使われている乗り物に慣れなくて、アンナーバーを通ってシカゴへ向かう鉄道で行くことにしました。シカゴ駅へ着いてからどのようにして彼のアパートに着いたのかはよく覚えていません。それに反して、アパートに着いてからのことはハッキリとしたイメージを伴って記憶されているのです。彼は12畳ほどの大きな部屋を用意してくれていました。Geneの配慮が伝わってきましたが、こちらは英会話に慣れない身なのと、当時アメリカという先進国に対する尊敬と同時に感じたいわれなき劣等感のせいか両肩が物凄く痛くて仕方がなかったものでした。
 着いた日は雪が沢山降って、買い物に行った奥さんのメアリーが「車が動かない。」というので、Geneを呼びに来て、車の後押しをすることになりました。私も一緒に彼と二人でメアリーがエンジンをかけるのと同時に押してやっとこさ溝から押し上げました。車は軽のようで、小さかったものです。
 料理をしてご馳走してくれるというので、当時日本の習慣として奥さんが全部してくれるのかと思っていたら、彼が「ミシガン湖で採れた魚だ」とニコニコしながらホイルに包んでレンジで焼いてくれたのです。白身の大きな美味しい魚でした。「男子厨房に入るを許さず」という日本式とは違って、民主主義のアメリカでは男子もお料理をするのかと、その実例を見せられた思いがしたものです。食後の話の中で、奥さんのお母さんだったかが、鈴木大拙の弟子で禅仏教に親しみがあるとのことでした。日本で、二人は畠瀬さんご夫妻に案内されて、宇治市の能化院に曹洞宗の禅僧内山興正師を訪ねたとのことでした。また、降旗さんに誘われて、長野の活禅寺に徹禅無形老師を訪ねたとのことでした。
 Geneは二人の老師の批判をするのではなく、感じたままを述べる、と断ったうえで、どちらかと言うと、内山老師に深い印象を受けたとのことでした。メアリ-は徹禅無形老師に感銘を受けたと言って、彼から頂いたという「カルマを除く呪文」を書いた紙をもってきて、この読み方を書いてほしい、と頼まれたものでした。私はその文の内容は分からないが、読めることは読めるので、ローマ字で書いてあげたものでした。(あの静かで穏やかな日本婦人のような印象のメアリーも一昨年亡くなられました。合掌)
 その夜、Geneは物理学者と一緒に書いた原稿の30~40センチほど積み上がったのをパラパラとめくって「今夜はこれと一緒に寝てくれ」と笑顔で言ってくれたものでした。こちらは物理学の知識は一応普通以上との自己認識は持っていても、英語でしかも内容の難解なものは到底歯が立たなくて、楽しく一緒に寝ることは遠慮することにしました。そこには訳本で読んでも難しくて、ドイツ語では手に負えないハイデッガーの「存在と時間」も積んでありました。何回も挑戦したが、全部通読できていない本をGeneは原本で読めるのだからすごいな、と羨ましく感じながら、両肩の凝りの痛さを抱えたまま、眠りについたのでした。
 フォーカシングはいつ教えて貰えるのか分からないままに、彼は大学に行くし、こちらはただ、ぶらぶらと時間を過ごしているだけでした。いつ教えてくれるのかなと思い、「翻訳の許可を得ただけでもいいや」と思い始めた頃、いつもと違った渋い顔のジェンドリンが大学から帰って来て、「これからフォーカシングを教える」と言いました。
 「自分は今君にフォーカシングを教えられる気分ではない。だから、まず、自分がフォーカシングをする。」と言って彼は目を閉じて、身体を動かし、深い息をし、頬っぺたを両手でパタパタと叩いたりしていました。やがて、表情がいつもの通り落ち着いて穏やかなものとなりました。そして「アッ、ハ、ハ、ハ」と笑ったかと思うと、隣の部屋に行って、猛烈な速さでタイプライターを叩き始めました。日本では聞いたことがないし、ミシガン大学の女性の秘書たちからも聞いたことの無い猛烈な速さです。そして、やがて戻ってきて、「自分は君にフォーカシングを教えられる状態になったから、これから教える。」と言いました。
 私は心の中で、当然、彼がどんな気分であったか、フォーカシングをしてどうなったのか話してくれるだろうと期待したのですが、彼はそのことについては何も言いませんでした。今でも、あの時、思い切って訊いていたらどうだったろう、勇気が無くて惜しいことをした、という思いがする時もありますが、もはや彼は居ない、これは私にとって永遠の謎となってしまった。しかし、彼にとって、それはどうでもよいことで、リスナーの在り方やその状態を創るためのフォーカシングを身体で教えること、中心はあくまでもフォーカサーにあることを教えようとしていたのではないかと思えるようになったのは随分後のことでした。
 私は彼のリードに従って、始めました。この時の私のフォーカシング解釈は精神分析の自由連想(私はフロイドから精神分析を日本人として初めて習った古澤平作氏から教わる機会を子息の頼雄さんから伝えられたのですが、当時の精神分析に対する世評のために断ったことがあり、精神分析を実際に受けたことはなく、ただ、自由連想の仕方を知っていただけでした。)のようにすればいいのだろうと思っていました。
 ところが、Geneは「そんなに何でも言う必要は無い。私が君のことを理解することよりも君が君の身体が感じていることを知ることの方が大切なのだ。身体は今本当に必要なことを知っているのだ。」と言うのです。そこで、私は肩の凝りと痛みをじっくりと味わい、感じて、それを彼に伝えました。すると、彼はその痛みを内蔵の方、例えば胃の方へと移そうとしました。私もそうしようと努力したのですが、全くうまく行きませんでした。(後に、私はフォーカシングが完全にできるようになって、内臓感覚に頼ることなく、肩だろうと腰だろうと、身体のどこの部分であろうとフェルトセンスとして取り上げることができることを知りましたが、この頃のGeneは内臓感覚に引きもどそうとしているようでした。このことはアン・ワイザー・コーネルも触れていることを彼女の著書で知りました。)
 その時、肩の凝りと痛みが多少直ったような気がしてフォーカシングが分かったような気分で帰ってきましたが、今考えると、全然分かっていなかったと感じるのです。日本に帰ってきてから彼の日本での講演のテープ、村瀬さんや都留さんが通訳したテープを二本買ってきて、毎日聞いて朝晩一人で練習していたところ、一年くらいして、溜息が出るとか身体が暖かくなるとか戦慄が走るとかいうフェルトシフトが起こるようになりました。そして、「分かった」という気がしてきたのですが、まだ、他でフォーカシングを教えている人を見ると、何だか変だな、フォーカシングは暗示療法ではないし、イメージ療法でもない筈だ、という気がしてしまうのです。
 そこで、フォーカシングの真髄を知ろうと更に毎日朝晩やっている中に、ある晩ある問題で悩み、寝ながらフォーカシングしたところ、仰向けに寝たままの身体全体がフェルトシフトした時そのまま5センチくらい跳び上がったのです。ビックリしました。(立ったままフォーカシングしていた時、20センチくらい跳び上がった時もあります。)これは意識してできるものではありません。何故跳び上がるのか分からないのですが、大きなシフトが起こるときに跳び上がるのです。これは凄いと自分だけに留めないで、身近な所から広めようと「長野フォーカシング研究会」を始めたのでした。
 この不思議なジャンプは私一人だけのようです。そのことを知ったのはGeneが来日しようとして、その来日前にタクシーに乗っていて追突され「むち打ち症」になり、来られなくなったので、代わりにメアリーが来てくれたときのことでした。彼女が講演終わって一人で演壇にいた時に近づいて、そのことを話して、他の国でもシフトして跳び上がるという人は居るのかどうか訊いたところ「そういう話は聞いたことが無い。私はシフトするとき涙が出る。」と言っていました。「そうか。シフトしたとき、跳び上がるというのは私一人の現象なのか」と知ったのでした。彼女と話し合ったのはこれが二度目で、また最後でした。
 メアリー、有難う。でも、永遠にさようなら。しかし、また、いつも共に居ます。私の心の中に。生きている限り。

3.今後のこと

 なお、私はGeneの理論とフォーカシングという技術は私の「人格形成の科学」と統合すると非常に素晴らしい「人間科学」の理論と技術が出来上がると考えているのですが、これは後に続く方々にお任せするしかないかも知れません。私自身、彼から贈られてきた本、A PROCESS MODELは難しいというか面倒でまだ殆ど読んでないのです。誰か分かる人から教えて貰いたいと思っています。

4.感謝と別れ

 それにしても、偉大な、暖かい、また賢明な人格者、Geneと出会えたことに感謝し、心からのお礼を申し上げます。彼の死を悼み、残されたわれわれが彼の意志を継いで後輩たちに正しく伝え、さらに人類にとってのこの至宝の技術を発展させてゆきたいと思います。

ジェンドリン氏への追悼文

大田民雄

 やっぱりこの日が来てしまいました。彼はもう若くはないので仕方がないとは覚悟していましたが、惜しまれます。私が最初に彼に会えたのは2人とも非常に若い頃でした。1978年に九州大学で日本心理学会が開催され、その講演においてでした。私は幸運にもその休憩中に彼とマリーとに会う機会に恵まれ、話し合うことが出来ました。その時、長野の禅寺に3人で一緒に行くことになりました。次の週にそこへ1泊2日で行きました。その中でシカゴに来たら我が家に来るように言ってくれたので、翌年私はウイスコンシン大学へ交換教授として行き、そのお陰でジェンドリン氏の家でお世話になり、ワークショップに何度か出していただきましたから、合計2週間くらい面倒を見てくれました。私の最初の印象は、彼は論じることや述べることと一致して実行できる人間であったということです。

 初めに彼に近づいた時の私の関心は専門的分野についてでした。また、彼の理論や技法について知りたかったのです。しかし、ジェンドリン氏から、立派な心理学者になるためには、先ず、自分の人間としての在り方から成長しなければならないことを私は次第に学びました。彼の人間性の方が私をより引き付けました。彼は洞察が深く、思いやりも深いのです。又、彼は感受性豊かで鋭敏であり、普通ではなく、確かに体験しているのです。ジェンドリン氏のようになるのは不可能に近いと思いますが、彼を理想として目指し、少しでも成長して行きたいと思っています。

ジェンドリンの死を悼む

ニュースレターグループ編集長 上村英生

 父が亡くなった時、母が亡くなった時を私は一生忘れない。それと同じように、ジェンドリンの死も、生涯忘れられない悲しい出来事として残るだろう。

 彼の業績については、多くの先生たちに譲るとして、私は新聞記者として2005年11月7日にニューヨークでインタビューした記憶をたどりたい。

 当時、78歳の彼は、70代には見えない精かんな印象を受けた。

 当地で開かれていたフォーカシング資格認定ワークショップ(ウイークロング)に同行したMMさんが通訳し、写真も撮ってくれた。

インタビューに答えるジェンドリン2005年11月

 「フェルトセンス」を新聞の読者向けに、わかりやすく説明してもらおうとする私に対して、彼は言葉にこだわらず、その意味するところを、自分なりの表現で説明すればいいと話してくれた。

――「フェルトセンスという言葉を使うかどうかじゃなくて、自分の経験としても、フェルトセンスがどういうものかというのは、あると思うから、そういう言葉を使うとしても、ちゃんとそういう言葉を説明したほうがいいと思うよ」(ジェンドリン)

「フォーカシングを習うにはクライエントである必要はない」という彼の本の記述についても尋ねた。

――「私はあなたがすべて1人でできるということを意味するつもりはありません。あなたと議論したり、彼らの考えをあなたに言おうとしたりせずに、あなたの話を聞くことのできる人と相互作用することが重要です。あなたのフォーカシングパートナーは、セラピストでなくても、専門家でなくても、何かを知らなくてもかまいません。あなたの話を聞いて、理解できないときにあなたにそれを言うことがすべてです。そして、それから、あなたは対抗する人とも相互作用をもつ。どんなこととも相互作用をもつことが大切で、あなたが考えている極端に感じる何かとさえそうです」(ジェンドリン)

 フォーカシングは内面だけに注意を向けると誤解されがちだが、彼は相互作用を強調した。「インタラクション ファースト」の哲学的な大切さに当時、私は気づいていなかった。今になって、彼の言葉が、難しい状況に向かう励ましになっている。

 今年3月、私は62歳になってフォーカシングにまつわる初めての論文を書くことができた。ジェンドリンを知らない周りの若者に、今生きている偉大な研究者であり、思想家でもあることを知らせたいという願いを、生前に果たせた。2017年は、「フォーカシング」に出合って32年の私にとって、節目の年として刻まれるだろう。

 これまでの人生を振り返ると、彼がいて、この世にフォーカシングがあったから、心の杖がいつもあった。彼が、いなかったらどうだったか、想像もつかない。残る人生、彼の言葉を単に真似るのではなく、自分の言葉で伝えていく、ジェンドリン哲学とフォーカシングの一伝道師になりたい。

(追悼文中にあるジェンドリンへのインタビューは,2005年(平成17年)11月27日(日曜日)北海道新聞 朝刊 全道遅版 総合 3ページ に掲載されています)

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