ユージン・T・ジェンドリンを偲んで

 ユージン・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin)が,2017年5月1日午後(Eastern Standad Time、日本時間2日午前)、ニューヨークで亡くなりました。90歳でした。彼の多大なる功績と人柄を偲び,謹んでご冥福をお祈りいたします。

 人が体験していることを表現し理解していくプロセスに着目しフォーカシングと名付けた米国の哲学者・心理学者であったジェンドリンは,私たちの生活と社会にたくさんの恵みをもたらしてくれました。

 このページでは,協会メンバーから寄せられた追悼文を掲載していきます。

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ジェンドリンと私

末武康弘(法政大学)

 私には心から畏敬する3人の存在がある。いや、その3人全員が亡くなったことを思うと、「あった」と言うべきだろうか。カール・ロジャーズ、友田不二男、そしてジェンドリンである。

 私がジェンドリンの思想や方法に最初に触れたのは、学生だった40年近く前のことであり、筑波大(あるいはその前身の東京教育大)の先輩だった犬塚文雄氏や上嶋洋一氏を通してのことだった。東京教育大と筑波大の教育学研究科にはロジャーズやジェンドリンを研究する流れが(細々と)あって、先輩たちからジェンドリンの論文の写しをいくつも頂戴した。また大先輩である増田實先生や岸田博先生からもジェンドリンやフォーカシング関係の貴重な資料をいただいたりした(そうした論文や資料はその後、後輩の諸富祥彦氏ほかのもとへ渡っていった)。

 友田不二男氏の著作の影響から(その出身大学だった東京文理科大の末裔にあたる)筑波大に進学した私は、もちろんロジャーズにはすぐに傾倒することになったが、ジェンドリンの存在やその仕事の重要性を知ったのはそれほど早いことではなく、上嶋氏の修士論文の手伝いをしていた学部4年生の頃だった。そして、私の中でその存在が大きくクローズアップされるようになったのは、その2年後(1982年)に来日したカール・ロジャーズと娘のナタリー・ロジャーズによる6日間のワークショップに参加した時からのことである。間近に見るロジャーズは静かで深い存在感を感じさせてくれたが、すでに80歳を迎えた老人であり、またそのロジャーズに対して熱狂的あるいはアンビバレントな眼差しを向ける人たちや、そうした視線からロジャーズを守ろうとする人たちの姿などを目の当たりにして、私の中にはある強い思いが湧き出てきた。それは、「ロジャーズをしっかりと見届け、そしてポスト・ロジャーズが誰なのかを見定めなくてはいけない!」というものだった。すぐにジェンドリンの存在が私の中に結晶化したわけではなかったが、しばらくの探究と熟考を経て、「やはりジェンドリンしかいない」という結論にたどり着いた。そこから現在に至る、私にとっての遅々とした、しかしある面ではゆるぎないジェンドリン研究が続くことになった。

 ジェンドリンと直接に触れあう機会は何度かあったが、思い出深い場面をいくつか振り返ってみたい。

 1つめは、1987年9月に2度目の来日を果たしたジェンドリンが、夢フォーカシングをテーマにした6日間のセミナーを開催し、そこに参加したことである。何人かの参加者がクライアント役となってジェンドリンの夢フォーカシングのデモンストレーションを体験したが、私もその1人だった。私は思い切って、「実際のセラピーに近い形で、本格的にやってもらいたい」と希望を伝え、ジェンドリンはそれに応じてくれた。その時の経験は、人間関係研究会の会報誌『ENCOUNTER』(1987年、第6号)などに報告したが、今でも忘れることのできないインパクトが残っている。後にやはりデモンストレーションでクライアント役をつとめた時のアン・ワイザーとの体験が、私にとって「3日間ほど自分が全く変容した(けれどもその後はまたもとに戻った)」ようなものだった(それはそれで素晴らしい体験だったが)のに対して、ジェンドリンとの体験は「その後10数年に渡って自分の人生の大きな課題となることが前景として浮き彫りになった」と言えるものだった。

 2つめの思い出深い場面は、2008年3月にジェンドリンがニューヨークで行った「暗在的なものが心理療法において果たす役割を照射しうるいくつかの哲学的概念」と題するワークショップへ参加した際、その翌日に日本から来た私たちをニューヨーク郊外の自宅に呼んで、質問とディスカッションのひと時を提供してくれた時のことである。詳細は法政大の学部紀要『現代福祉研究』(2009年、第9号)に書いたが、私にとっては彼の『プロセスモデル(A Process Model)』(Gendllin, 1997)の主要概念――「リーフィング(leafing)」、「停止(stoppage)」、「進化(evolution)」ほか――の意味を深く理解するまたとない機会となった。帰国した1週間後には、ジェンドリンからディスカッションに関連した手紙をもらい、その深い内容に圧倒された。私に対して(すら)このような相互作用をもたらしてくれたジェンドリンは、他のあらゆる人にも深い相互作用をもたらすことのできる存在であることを確信した。

 3つめの、そして最後のジェンドリンとの接触は、2011年の11月に開催された第2回フォーカシング指向セラピー国際会議に参加した時のことである。この会議にジェンドリンは顔を出さなかったが、会期中に日本人参加者で集まって彼の自宅を訪問した。印象的だったのは、別れ際にジェンドリンが、晩年のロジャーズが繰り返し「自分の真似はしないでほしい」と言っていたことに触れて、「自分も当時のカールと同じくらいのおじいさんになったので、皆さんに伝えなくてはならないが、私の真似をしてはいけない。皆さんは一人ひとり自分の道を歩んでいかなくてはならないのだから」と告げたことだった。ロジャーズも、そしてジェンドリンも「私の真似はしないでほしい」と私たちに言うのだ(そう言えば、友田不二男氏も逝去の直前に「今日で友田不二男はやめた」と語っていた、これも「私の真似はするな」というメッセージだったのかもしれない『友田不二男研究』(2009年))。

 それでは、私たち一人ひとりはこれからどのように進んでいけばよいのだろうか? 『プロセスモデル』第Ⅷ章のキーワードを(誤解を恐れずに私なりに咀嚼しつつ)用いて表現すると、ジェンドリンが生み出した哲学やフォーカシングやTAEといった「モナド(monad)」とその輝きは、多くの人の知るところとなり、大きな影響を与えるようになっている(「モナド・アウト(monad out)」)。そのうえで、私たちにとっての課題は、ジェンドリンのモナドが私たち一人ひとりの中にどのように取り入れられ、そこで新たな何かが創造され(「モナド・イントゥ(monad into)」、すなわち「ダイアフィル(diafil)」され)得るか、ということなのだろう。

 ジェンドリン(およびロジャーズや友田不二男)という存在や、彼(ら)が遺したモナドをただ賛美することにとどまるのでなく、私たち一人ひとりにおけるこうした「推進・進展(carrying forward)」の方向性と重要性を指し示してくれたジェンドリンに、あらためて感謝の気持ちを伝えたい。

 

Eugene T. Gendlinの死に接して思うこと

筒井健雄

 2017年5月4日、私はMMさんからのメールを通して「ジェンドリンがこの5月1日亡くなられたこと」を知りました。
 Geneとは心の深い所で共感し合える感じがあり、私にとっては偉大な師でありました。

1.私の目指した所

 私は1940年、いろいろな事情があって、父が当時の国策の満蒙開拓に参加したため、4歳から5歳頃、父に連れられ満州の開拓団に入植しました。1941年米英に対する戦争始まり、その翌年開拓団の国民学校に入学した私は軍国主義的教育を受けて軍国少年になりました。そして神風特別攻撃隊に憧れました。
 しかし、日本は敗戦、翌年引き揚げ、敗戦原因の一つとして、原子爆弾のことを知った私は、密かに、原子爆弾より強力な兵器を造って、復讐してやろうと考えました。軍国主義教育の名残は恐ろしいものです。ところが大学に入る頃、米軍がビキニ環礁で水爆実験をしてその「死の灰」をマグロ漁船第五福竜丸が浴びる事件が起こりました。これが、もはや戦争に依って国際紛争を解決することはできないことを私に教えてくれました。
 私は進路を変更して、戦争を必要としない人間創りを目指して、(自然)科学的心理学を研究することにしました。しかし、この(自然)科学的心理学では目指す「人格形成の科学」は学習も創造もできないことを知り、悩みました。この学問は意識や人格を科学的研究の対象としていなかったからです。
 幸い、1958年、一卵性や二卵性を使う双生児研究法での「性格に及ぼす遺伝と環境の問題」を研究する中で、双生児から「死後の世界は有り得ない」という事実を教えられ、大発見の歓喜と同時に運動幻覚の恐怖を味合わされ、このことを誰にも話せないという孤独の中で「人格形成の科学」=『人間科学』を創造した結果、およそ15年後の1972年に、運動幻覚に襲われるという恐怖から解放されました。この年、日本で開かれた国際心理学会で発表しましたが、北欧から一人「これを使わせてほしいという手紙」があって、OKしましたが、これ以外は全く反響が無かったものでした。日本の心理学会からは当然のごとく完全に無視されました。

2.Geneとの出会い

 その頃、先輩の村瀬孝雄氏を通じてGeneのexperiencing(体験過程)という概念を知り、共感しました。凄く嬉しかったものです。Experiencing and the Creation of Meaningはそれこそ、「これだ。これだ。」という心躍る感じの内容でした。彼は自然科学が成り立つための必須の次元を論理的次元と実験的次元の二つと定義し、さらに臨床心理学における必須の次元はこれら二つの他にexperiencing(体験過程)の次元である、と述べていました。この点がまさにGeneの優れた洞察でした。
 自然科学の実験においても、成功する研究においては実験者が未熟なうちは実験が成功しないが、失敗を繰り返すうちに実験者の人格がその実験を成功させるための能力を身に着けさせることになるわけです。自然科学的研究においてはこの面が全く無視されてしまっていたのです。それは客観性を重視する自然科学の立場が自ずとカット(無視)することになっていたからです。後に村瀬さんがアメリカから帰った時、この本を是非訳したいという相談をしましたが、「訳すのも難しいが、難しいから売れないかもしれないよ。」と言われたものです。全くその通りでしたが、最近はこれを使って講義をする方のお蔭でポチポチとAmazonを通して購入依頼が来ています。訳した時は、毎朝早く起きて2時間くらい訳す時間が楽しくてアッという間に過ぎたものでした。
 1978年在外研究を許されて、一年間ミシガン大学のボーデイン先生のところでカウンセリングの研究をさせて貰いました。本当はGeneの所で学びたかったのですが、彼から返事が貰えなくて、仕方が無いので、恩師の肥田野教授にお願いして、ようやく願いがかなったという次第でした。この時、6月10日、11日とGeneとその仲間に会う機会を与えられ、changesという会へも一寸だけ参加させてもらいました。
 有り難かったのは、その年の10月に彼が日本へフォーカシングを教えに行った後、ミシガン大のノースキャンパスに居た私の所へ電話を入れてくれて、「日本へ行ってきた。フォーカシングを教えるから私のアパートへ来ないか」と誘ってくれたことでした。この時、あのExperiencing and the Creation of Meaningを訳す許可を貰うことができました。

 この年の12月19日から21日までのGeneの新しいアパートでのことを「長野フォーカシング研究会25周年記念誌」の11頁から22頁に書いてあります。それをできるだけ短く、分かり易く紹介してみようと思います。Geneから提案された「フォーカシングを含む素晴らしい出会い」を思い出し、喜びと感謝の気持ちでそれを味わいつつ述べてみましょう。

 私は当時自家用車や飛行機というアメリカで日常的に使われている乗り物に慣れなくて、アンナーバーを通ってシカゴへ向かう鉄道で行くことにしました。シカゴ駅へ着いてからどのようにして彼のアパートに着いたのかはよく覚えていません。それに反して、アパートに着いてからのことはハッキリとしたイメージを伴って記憶されているのです。彼は12畳ほどの大きな部屋を用意してくれていました。Geneの配慮が伝わってきましたが、こちらは英会話に慣れない身なのと、当時アメリカという先進国に対する尊敬と同時に感じたいわれなき劣等感のせいか両肩が物凄く痛くて仕方がなかったものでした。
 着いた日は雪が沢山降って、買い物に行った奥さんのメアリーが「車が動かない。」というので、Geneを呼びに来て、車の後押しをすることになりました。私も一緒に彼と二人でメアリーがエンジンをかけるのと同時に押してやっとこさ溝から押し上げました。車は軽のようで、小さかったものです。
 料理をしてご馳走してくれるというので、当時日本の習慣として奥さんが全部してくれるのかと思っていたら、彼が「ミシガン湖で採れた魚だ」とニコニコしながらホイルに包んでレンジで焼いてくれたのです。白身の大きな美味しい魚でした。「男子厨房に入るを許さず」という日本式とは違って、民主主義のアメリカでは男子もお料理をするのかと、その実例を見せられた思いがしたものです。食後の話の中で、奥さんのお母さんだったかが、鈴木大拙の弟子で禅仏教に親しみがあるとのことでした。日本で、二人は畠瀬さんご夫妻に案内されて、宇治市の能化院に曹洞宗の禅僧内山興正師を訪ねたとのことでした。また、降旗さんに誘われて、長野の活禅寺に徹禅無形老師を訪ねたとのことでした。
 Geneは二人の老師の批判をするのではなく、感じたままを述べる、と断ったうえで、どちらかと言うと、内山老師に深い印象を受けたとのことでした。メアリ-は徹禅無形老師に感銘を受けたと言って、彼から頂いたという「カルマを除く呪文」を書いた紙をもってきて、この読み方を書いてほしい、と頼まれたものでした。私はその文の内容は分からないが、読めることは読めるので、ローマ字で書いてあげたものでした。(あの静かで穏やかな日本婦人のような印象のメアリーも一昨年亡くなられました。合掌)
 その夜、Geneは物理学者と一緒に書いた原稿の30~40センチほど積み上がったのをパラパラとめくって「今夜はこれと一緒に寝てくれ」と笑顔で言ってくれたものでした。こちらは物理学の知識は一応普通以上との自己認識は持っていても、英語でしかも内容の難解なものは到底歯が立たなくて、楽しく一緒に寝ることは遠慮することにしました。そこには訳本で読んでも難しくて、ドイツ語では手に負えないハイデッガーの「存在と時間」も積んでありました。何回も挑戦したが、全部通読できていない本をGeneは原本で読めるのだからすごいな、と羨ましく感じながら、両肩の凝りの痛さを抱えたまま、眠りについたのでした。
 フォーカシングはいつ教えて貰えるのか分からないままに、彼は大学に行くし、こちらはただ、ぶらぶらと時間を過ごしているだけでした。いつ教えてくれるのかなと思い、「翻訳の許可を得ただけでもいいや」と思い始めた頃、いつもと違った渋い顔のジェンドリンが大学から帰って来て、「これからフォーカシングを教える」と言いました。
 「自分は今君にフォーカシングを教えられる気分ではない。だから、まず、自分がフォーカシングをする。」と言って彼は目を閉じて、身体を動かし、深い息をし、頬っぺたを両手でパタパタと叩いたりしていました。やがて、表情がいつもの通り落ち着いて穏やかなものとなりました。そして「アッ、ハ、ハ、ハ」と笑ったかと思うと、隣の部屋に行って、猛烈な速さでタイプライターを叩き始めました。日本では聞いたことがないし、ミシガン大学の女性の秘書たちからも聞いたことの無い猛烈な速さです。そして、やがて戻ってきて、「自分は君にフォーカシングを教えられる状態になったから、これから教える。」と言いました。
 私は心の中で、当然、彼がどんな気分であったか、フォーカシングをしてどうなったのか話してくれるだろうと期待したのですが、彼はそのことについては何も言いませんでした。今でも、あの時、思い切って訊いていたらどうだったろう、勇気が無くて惜しいことをした、という思いがする時もありますが、もはや彼は居ない、これは私にとって永遠の謎となってしまった。しかし、彼にとって、それはどうでもよいことで、リスナーの在り方やその状態を創るためのフォーカシングを身体で教えること、中心はあくまでもフォーカサーにあることを教えようとしていたのではないかと思えるようになったのは随分後のことでした。
 私は彼のリードに従って、始めました。この時の私のフォーカシング解釈は精神分析の自由連想(私はフロイドから精神分析を日本人として初めて習った古澤平作氏から教わる機会を子息の頼雄さんから伝えられたのですが、当時の精神分析に対する世評のために断ったことがあり、精神分析を実際に受けたことはなく、ただ、自由連想の仕方を知っていただけでした。)のようにすればいいのだろうと思っていました。
 ところが、Geneは「そんなに何でも言う必要は無い。私が君のことを理解することよりも君が君の身体が感じていることを知ることの方が大切なのだ。身体は今本当に必要なことを知っているのだ。」と言うのです。そこで、私は肩の凝りと痛みをじっくりと味わい、感じて、それを彼に伝えました。すると、彼はその痛みを内蔵の方、例えば胃の方へと移そうとしました。私もそうしようと努力したのですが、全くうまく行きませんでした。(後に、私はフォーカシングが完全にできるようになって、内臓感覚に頼ることなく、肩だろうと腰だろうと、身体のどこの部分であろうとフェルトセンスとして取り上げることができることを知りましたが、この頃のGeneは内臓感覚に引きもどそうとしているようでした。このことはアン・ワイザー・コーネルも触れていることを彼女の著書で知りました。)
 その時、肩の凝りと痛みが多少直ったような気がしてフォーカシングが分かったような気分で帰ってきましたが、今考えると、全然分かっていなかったと感じるのです。日本に帰ってきてから彼の日本での講演のテープ、村瀬さんや都留さんが通訳したテープを二本買ってきて、毎日聞いて朝晩一人で練習していたところ、一年くらいして、溜息が出るとか身体が暖かくなるとか戦慄が走るとかいうフェルトシフトが起こるようになりました。そして、「分かった」という気がしてきたのですが、まだ、他でフォーカシングを教えている人を見ると、何だか変だな、フォーカシングは暗示療法ではないし、イメージ療法でもない筈だ、という気がしてしまうのです。
 そこで、フォーカシングの真髄を知ろうと更に毎日朝晩やっている中に、ある晩ある問題で悩み、寝ながらフォーカシングしたところ、仰向けに寝たままの身体全体がフェルトシフトした時そのまま5センチくらい跳び上がったのです。ビックリしました。(立ったままフォーカシングしていた時、20センチくらい跳び上がった時もあります。)これは意識してできるものではありません。何故跳び上がるのか分からないのですが、大きなシフトが起こるときに跳び上がるのです。これは凄いと自分だけに留めないで、身近な所から広めようと「長野フォーカシング研究会」を始めたのでした。
 この不思議なジャンプは私一人だけのようです。そのことを知ったのはGeneが来日しようとして、その来日前にタクシーに乗っていて追突され「むち打ち症」になり、来られなくなったので、代わりにメアリーが来てくれたときのことでした。彼女が講演終わって一人で演壇にいた時に近づいて、そのことを話して、他の国でもシフトして跳び上がるという人は居るのかどうか訊いたところ「そういう話は聞いたことが無い。私はシフトするとき涙が出る。」と言っていました。「そうか。シフトしたとき、跳び上がるというのは私一人の現象なのか」と知ったのでした。彼女と話し合ったのはこれが二度目で、また最後でした。
 メアリー、有難う。でも、永遠にさようなら。しかし、また、いつも共に居ます。私の心の中に。生きている限り。

3.今後のこと

 なお、私はGeneの理論とフォーカシングという技術は私の「人格形成の科学」と統合すると非常に素晴らしい「人間科学」の理論と技術が出来上がると考えているのですが、これは後に続く方々にお任せするしかないかも知れません。私自身、彼から贈られてきた本、A PROCESS MODELは難しいというか面倒でまだ殆ど読んでないのです。誰か分かる人から教えて貰いたいと思っています。

4.感謝と別れ

 それにしても、偉大な、暖かい、また賢明な人格者、Geneと出会えたことに感謝し、心からのお礼を申し上げます。彼の死を悼み、残されたわれわれが彼の意志を継いで後輩たちに正しく伝え、さらに人類にとってのこの至宝の技術を発展させてゆきたいと思います。

 

ジェンドリン氏への追悼文

大田民雄

 やっぱりこの日が来てしまいました。彼はもう若くはないので仕方がないとは覚悟していましたが、惜しまれます。私が最初に彼に会えたのは2人とも非常に若い頃でした。1978年に九州大学で日本心理学会が開催され、その講演においてでした。私は幸運にもその休憩中に彼とマリーとに会う機会に恵まれ、話し合うことが出来ました。その時、長野の禅寺に3人で一緒に行くことになりました。次の週にそこへ1泊2日で行きました。その中でシカゴに来たら我が家に来るように言ってくれたので、翌年私はウイスコンシン大学へ交換教授として行き、そのお陰でジェンドリン氏の家でお世話になり、ワークショップに何度か出していただきましたから、合計2週間くらい面倒を見てくれました。私の最初の印象は、彼は論じることや述べることと一致して実行できる人間であったということです。

 初めに彼に近づいた時の私の関心は専門的分野についてでした。また、彼の理論や技法について知りたかったのです。しかし、ジェンドリン氏から、立派な心理学者になるためには、先ず、自分の人間としての在り方から成長しなければならないことを私は次第に学びました。彼の人間性の方が私をより引き付けました。彼は洞察が深く、思いやりも深いのです。又、彼は感受性豊かで鋭敏であり、普通ではなく、確かに体験しているのです。ジェンドリン氏のようになるのは不可能に近いと思いますが、彼を理想として目指し、少しでも成長して行きたいと思っています。

 

ジェンドリンの死を悼む

ニュースレターグループ編集長 上村英生

 父が亡くなった時、母が亡くなった時を私は一生忘れない。それと同じように、ジェンドリンの死も、生涯忘れられない悲しい出来事として残るだろう。

 彼の業績については、多くの先生たちに譲るとして、私は新聞記者として2005年11月7日にニューヨークでインタビューした記憶をたどりたい。

 当時、78歳の彼は、70代には見えない精かんな印象を受けた。

 当地で開かれていたフォーカシング資格認定ワークショップ(ウイークロング)に同行したMMさんが通訳し、写真も撮ってくれた。

インタビューに答えるジェンドリン2005年11月

 「フェルトセンス」を新聞の読者向けに、わかりやすく説明してもらおうとする私に対して、彼は言葉にこだわらず、その意味するところを、自分なりの表現で説明すればいいと話してくれた。

――「フェルトセンスという言葉を使うかどうかじゃなくて、自分の経験としても、フェルトセンスがどういうものかというのは、あると思うから、そういう言葉を使うとしても、ちゃんとそういう言葉を説明したほうがいいと思うよ」(ジェンドリン)

「フォーカシングを習うにはクライエントである必要はない」という彼の本の記述についても尋ねた。

――「私はあなたがすべて1人でできるということを意味するつもりはありません。あなたと議論したり、彼らの考えをあなたに言おうとしたりせずに、あなたの話を聞くことのできる人と相互作用することが重要です。あなたのフォーカシングパートナーは、セラピストでなくても、専門家でなくても、何かを知らなくてもかまいません。あなたの話を聞いて、理解できないときにあなたにそれを言うことがすべてです。そして、それから、あなたは対抗する人とも相互作用をもつ。どんなこととも相互作用をもつことが大切で、あなたが考えている極端に感じる何かとさえそうです」(ジェンドリン)

 フォーカシングは内面だけに注意を向けると誤解されがちだが、彼は相互作用を強調した。「インタラクション ファースト」の哲学的な大切さに当時、私は気づいていなかった。今になって、彼の言葉が、難しい状況に向かう励ましになっている。

 今年3月、私は62歳になってフォーカシングにまつわる初めての論文を書くことができた。ジェンドリンを知らない周りの若者に、今生きている偉大な研究者であり、思想家でもあることを知らせたいという願いを、生前に果たせた。2017年は、「フォーカシング」に出合って32年の私にとって、節目の年として刻まれるだろう。

 これまでの人生を振り返ると、彼がいて、この世にフォーカシングがあったから、心の杖がいつもあった。彼が、いなかったらどうだったか、想像もつかない。残る人生、彼の言葉を単に真似るのではなく、自分の言葉で伝えていく、ジェンドリン哲学とフォーカシングの一伝道師になりたい。

(追悼文中にあるジェンドリンへのインタビューは,2005年(平成17年)11月27日(日曜日)北海道新聞 朝刊 全道遅版 総合 3ページ に掲載されています)

 

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 なお,彼が1985年に設立し,フォーカシングと「暗黙の哲学」(Philosophy of Implicit)の普及にあたってきた国際フォーカシング研究所(The International Focusing Institute)ウェブサイトのトップページに,ジェンドリン逝去の知らせとジェンドリンを偲ぶページ(Eugene T. Gendlin In Memoriam)へのリンクが掲載されています。

 そして,8月12日にニューヨークで国際フォーカシング研究所の創立者であるジェンドリンの生涯を讃える記念会が開催されました。
 主催:国際フォーカシング研究所
 日時:2017年8月12日10:00~ (日本時間8月12日23:00~)
 場所:ニューヨーク市、へブルユニオン大学
記念会の式次第とその録画をこちらでご覧になれます。


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